純粋美術とは所謂絵画や彫刻など美術館に並んでるあれだ。自由美術ともいう。商業美術は街中に溢れている看板やポスターなどの広告。耳慣れた言葉でいえばデザイン。応用美術ともいう。広義には生活と密接に関わる陶器などの食器や建築もこれにあたる。
先月のブログでその過渡期を彩った一人がミュシャだと言ったが、今月の初めに熊本のミュシャ展に行って一つ気づいたことがある。妙な事を言うようだが、美術館内に陳列された作品よりも美術館の周りの街角に貼られたミュシャ展を告知するポスターの方が遥かに輝いてみえるのだ。
通常、純粋美術であれば、どうしても見る者はある種の緊張を強いられる。それはその画家の人生そのものに直に触れる事に他ならないからだ。各々の作品は一般によく語られるような母親の酒乱や身内の不幸な死・戦争などの象徴的なエピソードから一元的に生まれるのではない。箸にも棒にも掛からないようなつまらぬ悩みや誰にも言えない変質性など、一般人が普段は仮面の下に隠して暮らしているカオスも様々に混ざった絵具で描かれている。彼らが追い求めたものは万人に永久不変の美などではない。あらゆる時代、あらゆる文化に通じる真実を描き出そうとしたのでは決してない。ただ自分自身の真実をできるだけ誠実にキャンバスに描き止めたいと願っただけである。純粋美術は天才の感性でどこの誰だか分からない「個」をターゲットに鋭角に構築された芸術故に見る者にも理解するための努力を要求する。見ていて緊張を強いられる、或いは疲れる理由はこれである。
純粋美術が自分自身・友人・恋人・家族・注文主或いは神など、ほぼ例外なく「個」を対象に制作されているのに対し、商業美術は「大衆」という顔のない怪物を最終ターゲットとして制作されている。心を動かすのが目標ではなく具体的に行動を起こさせるのが商業美術の最終目標だ。これは両者の創作の難しさを比較しているわけではないし、芸術性の浅深を論じているわけでもない。ちょうど短歌とキャッチコピーに例えると判り易いが、自身の詠嘆や恋人への思いを究極の主観的感性で自己表現したのが短歌で、共感度の高い歌には魂を揺さぶられるほどの感動を感じるが、共感できない歌は子供の寝言以下。
キャッチコピーの場合は顧客心理型・メッセージ型・数字説得型など様々なアプローチタイプがあり、商品のペルソナに応じて、シンクロ率は下がるが分母を大きく取って目標数を達成するか、ターゲットを絞り分母は小さくなるがシンクロ率を上げて目標数を達成するかだが、いずれにしても「個」ではなく大なり小なり「大衆」という固まりが対象だ。
この度のミュシャ展でつくづく再認識したのは、やはりミュシャは商業美術家であるということ。ほぼ同じ時代を生きたクリムトはもちろん、ポスター作品を多数残しているロートレックを見てもやはり美術館に収まってる事を自然に受け入れられるが、ミュシャ作品は美術館に収まってる事にある種の違和感や居心地の悪さを感じてしまう。
21世紀の街中にあっても全く古びる事なく存在感を放つミュシャの凄さを改めて再認識する旅だった。
そして都城の地鶏と宮崎牛と熊本の馬刺の美味しさも改めて再認識する旅だった。。