いきなりですがクイズです。
「戀しい」「一體」「廢嫡」この読み方、分かるでしょうか?(解答は最後に)
先日、ボードレールの「惡の華」を読み返しました。説明するまでもなく19世紀中頃に出版された恐らく世界で一番有名な詩集ですが、僕が読んだのは1961年に鈴木信太郎氏の訳で岩波書店から発行された本です。僕が生まれるたった6年前。中学三年生で読んだとしても20年前です。驚くのはここに使われている言葉の恐らく三割程度は現代では殆ど使用されていない言葉であり、漢字であるという点です。言葉というのは社会で集団を形成し共同生活をする上で、意志を伝達するための便利な共通の記号の様なものですが、地方のコミュニティー毎に使用されていた方言が、交通網が発達し、行き来が増えるにつれて混じり合い、共通語が形成されていくのとは逆に、社会生活の中で不要とされた言葉は淘汰され消えていく。その言葉に姿を与えるのが漢字です。つまり僅か20年の世代間で必要とされている共通認識は七割程度しか無いのかもしれないという事です。
僕達、商業デザイナーにとって、この失われた三割をしっかり意識して制作する事の大切さを改めて認識させられました。
誤解の無いように一言。これははあくまで記号としての言葉に対する僕の認識です。ウィキペディアでは、ジェネレーションギャップの固定化が文化の伝承を妨げる可能性などに言及していますが、僕はそれは全く思いません。カタカナ言葉などが増えてきたのは、世界との接点が増えたため共通認識を得るための記号としての必要性から自然発生的に増えたものでしょう。
画家が絵具を選択するように、詩人が選択した言葉、心ある訳者が吟味を重ねて選び出した言葉に関しては色褪せることなく、「惡の華」に見える難しい漢字が芸術としての詩篇の美しさを阻害することは無いし、日本人の感性で捉える「惡の華」をより生き生きと僕達に感じさせてくれます。
風さそふ花のゆくへは知らねども惜しむ心は身にとまりけり
西行の1000年前の歌ですが、それでも日本に生まれ育った人なら、恐らくその心根を誤解することは無いでしょう。1000年前の歌に僕達の心が応え震える事自体が、古今の歴史を貫いて僕達の中に文化が継承されている証拠です。
記号としての言葉は次々と変わっては消えていきますが、数千年に及ぶ自国の歴史に対する愛情のうちに生まれ、そして育まれた文化がそう簡単に消えるわけがない。
商業デザイナーにとって、理由広告に必要なのが、記号としての言葉の考察だとしたら、感情広告に必要なのは、情緒の起点となる言葉の考察です。理由広告のキャッチコピーで記憶に残るものは全くと言っていい程無い(デザイナーの皆さんは職業柄、ケープルズのコピーなどは知識としてはあるでしょうが)ですが、感情広告のキャッチコピーで記憶に残っているものは数えきれないほどあります。自明ですね。
そうそう、クイズの解答です。
「戀しい」・・こいしい(恋しい)
「一體」・・いったい(一体)
「廢嫡」・・はいちゃく(廃嫡、相続権をはく奪された子の意、つまり勘当された子ですね)
フォントがあり、今でも意味が通じるものだけをピックアップしても中々難解ですよね(^^;