皆さんは一倉宏(いちくらひろし)さんというコピーライターをご存知でしょうか?
サントリーや積水ハウス等々、例えば松下電工(現Panasonic)の「きれいなおねえさんは好きですか?」などのコピーが有名ですね。
コピーだけを見ると、良く言えば素直、悪く言えば平凡な文章で、評論家の中には厳しい評価をする人もいるようですが、僕は間違った判断だと思います。なぜなら彼の文章は画が入ると途端に一つ一つの言葉が鮮やかな色を持って僕の中に僕自身の主観をもって新たな像を結ぶからです。これは最近多い私小説の様なコピーとの大きな違いです。一倉さんのコピーからは、パステル画のように輪郭はボケているけれど、カラーの生き生きとした風景や人物の表情が見えるのですが、私小説のようなコピーはピントは合っているけれど、まるで見知らぬ白黒写真の様です。ですので一緒に配置されるイメージ画像も仕方なく説明的に学者顔で澄ましているか、トンチンカンで所在無げに薄ら笑いを浮かべているかのどちらかです。僕の心には何も語りかけてきません。

紀元前に石板に象形文字で書かれたチラシから始まった広告の歴史は、15世紀に印刷機、更に18世紀にビジュアル(画)の概念が入って飛躍的に進歩します。ここで主役の座をビジュアルに奪われてなるものかと文筆家が頑張ったのが間違いの元かもしれませんね。
例えば平家物語などは、よくよく読み返してみると殆どは凡庸な文章で淡々と起こった事象を述べているだけで、現代文学などに比べ具体的な映像も心理描写も極端に単調で少ない事が分かります。
しかし読む人は、それまで淡々と語られた平家の無道から、祇王の温情による「あそび者の推参は、常のならひでこそさぶらへ。その上、年もいまだ幼なうさぶらひなるが・・・召しかへして御対面さぶらへ」の一言をもって、その後の清盛の心変わりを予見し、清盛の幼稚ともいえる残酷さと翻弄される白拍子の不安や悲しみ、心臓の鼓動までを其処にあるように聞くのだと思います。

俳句や短歌が最近すごく人気ですが、この二つは文字の制限があるために、情緒の捉え方の大部分を読み手に依存する事になります。
「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」・・・ただ眼前に広がる風景を表しただけの歌です。百人一首にある持統天皇の歌ですが、正直才も何も感じない平凡な歌ですよね。でもこの歌を目にした人の心には、萌え木色に染まる山々の風景や鼻腔から肺一杯に広がる若草の香り、陽の光を浴びて春風にたなびく洗濯物の香りまでが広がります。とても平和な風景です。これは血で血を洗う乱世のつかの間の太平を謳歌した歌だなんていう歴史的背景は関係ありません。現代を生きる僕の身体に埋め込まれた情緒が反応して心に描く映像です。
本来広告のビジュアルとコピーに必要なのは、これではないかと思っています。説得ではなく共感だなんだと言いながら、おしつけがましい、或いは消費者心理を深読みし過ぎたコピーが氾濫しています。最近の広告コピーにはまるで百人一首の現代語訳を読んでいるような味気なさを感じていしまいます。もちろん全てではありませんが・・・。一倉宏さんのコピーは一倉さんではなく、読む人自身が自分に語り掛けている・・・だからこそ心に響くのだと思います。